「風立ちぬ」に「腹立ちぬ」
2014年1月3日
宇佐美 保
大橋巨泉氏は「週刊現代(昨年11月25日発売)」のコラム「今週の遺言」に於いて、
“地位ある方が反禁煙を否定するのは如何なものか?” |
旨を記述されていました。
この記述から、私は、直ぐに宮崎駿氏(更には、倉本聡氏)がテレビ画面の中で、タバコを吹かしておられる姿を思い起こしました。
禁煙が訴えられている現状で、このような振る舞いをなさる方は、タバコは無害であるとのそれなりのご見解、理論をお持ちと存じます。
しかし、宮崎氏の「タバコ無害論」をお聞きしたことが無いので、宮崎氏の引退記念映画である「風立ちぬ」を見ることで、どの程度の理論構成が出来るお方かが判ると存じ、その映画を見てみました。
なんとまあ〜主人公(二郎)たちは、常にタバコを吸っている始末で、呆れ果てて、「風立ちぬ」ではなく「紫煙立ちぬ」と題名変更してくれ!と怒鳴りたく存じました。
例えば、二郎が、夜、自宅で飛行機の設計図を書き上げているその横で結核で病床に伏せている新妻(菜穂子)に“手を握っていて”と頼まれ、左手で菜穂子の手を握り、右手で計算尺を操ります。
暫くすると二郎は“一寸手を放していい?”と菜穂子に尋ね、菜穂子の“何故?”との問いに、“タバコを吸ってくるから”と答えます。
菜穂子の“このままで吸って”との答えを受けて、菜穂子の横で二郎はタバコを吹かし始めます。
可笑しいですよね、
結核の菜穂子への気遣いがあるなら“一寸トイレに行ってきます”と言い、トイレないしは廊下でタバコを吸えばよい筈です。 まるで、「タバコの煙は結核患者へも全く無害だ!」との宮崎氏のメッセージが込められているような場面でした。 |
この調子で、多くの場面で主人公たちはタバコを吸っています。
“当時は、誰もが何かにつけてタバコを吸っていたのだから、その風潮を映画に反映しただけ”と宮崎氏はおっしゃるかもしれません。
ならば、二郎の服装は「派手な紫色のスーツ」だったり、当時の風潮を反映しているようには思えないのですが?
それにしても、何で今時、零戦開発者を主人公とした映画なのでしょうか?
映画の夢の中で、イタリアの飛行機製造者カプローニに、 “今は、戦闘機でも、戦争が終われば、旅客機を作る”とかを語らせていますが、 これでは、“今は原子爆弾を開発していますが、戦争が終わったら、原子力発電所を開発します”と言っているようなものです。 |
それにしましても、二郎は、結核がうつるのを心配する菜穂子にやたらと接吻します。
二郎の想いが“死なば諸共、今すぐにでも一緒に死のう”であるなら納得です。
だとしたら、飛行機の設計は中断も余儀なくされるでしょう。
それとも、結核にうつらない薬を持っていたり、自分が開発中だったのでしょうか?
この件に関しては、渡辺淳一氏の自叙伝『いくつになっても「週刊現代に連載」』に於ける、渡辺氏と結核を患っているという恋人純子との接吻の場面の方が共感出来、又、感動的です。
(その一部を文末の(補足:1)に掲載させて頂きます)
“自分の映画を見て泣いたのは初めて”とNHK(?)の番組で宮崎氏は語っていましたが、何処で泣けたのでしょうか? (私は、早くこの映画が終わらないかと、時計を何度も見ていました) |
それでも一寸気になる場面がありました。
二郎が設計した戦闘機が完成し、荷馬車に載せられて飛行場へ向かい、試験飛行する日、病床に伏せているべき菜穂子が道を走って行きます。
私は、てっきり夫の二郎が心血を注いで完成に持ち込んだ飛行機の試験飛行の様子を遠くからでも見に行くのかと思いました。 |
二郎たちに離れの一部屋を貸している上役の奥さんに、菜穂子はわざわざ“部屋は散らかっていますが、帰ってから整頓します”と言い残しつつ!
(普通なら、そんなセリフを吐かずとも、留守の部屋を大家さんが見に行くことは無い筈です)
ところが、その日訪れる予定だった二郎の妹がその部屋に入ると、部屋は整理整頓されており、テーブルの上には、皆への手紙が置いてありました。
(だったら、先の菜穂子のセリフは、あまりにこの場面の伏線であることが見え見えで不自然です)
私は、あまりに莫迦らしい手紙と思い、はっきりした内容は覚えていませんが
“見難くなって死んでゆく私ではなく、美しいままの私を二郎さんの脳裏に残したまま死にたいので、これから、山の療養所へ行きます” |
と言った内容だったと存じます。
そんな手紙を見て、二郎は“ああそうですか”と納得するでしょうか!?
当然、二郎は、山の療養所に駆けつけ、菜穂子を最後まで看病すると言い張るでしょう。
二郎の仕事はどうなるのでしょうか?
当然、二郎は、菜穂子の看病が完遂するまで、仕事を中断せざるを得ないでしょう。
山の療養所へ行くなら、二郎の成功をふたりで喜んでから、後日(相談するか、さもなくばこっそり)行けば良いではありませんか?
“死んでゆく見難い私……”は、宮崎氏が宮澤賢治作品をしっかり理解できていたら、書かなかった筈です。
例えば、宮澤賢治の妹が結核で死ぬ間際の様子を綴った詩「無声慟哭」を、はっきり理解できていたら!
(「無声慟哭」を次に転載させて頂きます)
…… おまへはひとりどこへ行かうとするのだ (おら、おかないふしてらべ) 何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら またわたくしのどんなちいさな表情も けっして見遁さないやうにしながら おまへはけなげに母に訊きくのだ (うんにゃ ずゐぶん立派だぢゃい けふはほんとに立派だぢゃい) ほんたうにさうだ 髪だっていっさうくろいし まるでこどもの苹果の頬だ どうかきれいな頬をして あたらしく天にうまれてくれ (それでもからだがくさえがべ?) (うんにゃ いっかう) ほんたうにそんなことはない …… |
そして、
何よりも私が驚いたのは、二郎の飛行機の成功を二人して喜ぶ場面が無かったことです。 二郎は、試験飛行の成功を菜穂子に伝える為、喜び勇んで帰って来た筈です。 二郎の喜びは菜穂子の喜びで倍増した筈です。 そして、一緒に喜び、今まで通りに、看病と仕事を継続出来た筈です。 |
ところが、トンデモナイ置手紙です。
ところが、宮澤賢治作品の理解力に欠ける宮崎氏では、「風立ちぬ」が精一杯なのでしょう。
その宮崎氏の宮澤賢治作品への理解力不足の例として、拙文≪『どんぐりと山猫』≫の記述の一部を(再編し)再掲します。
宮澤賢治の童話『どんぐりと山猫』に於いて、どんぐりたちが口々に“自分が一番偉い”と言い張り、それに対する判決を山猫から相談を受けた一郎が、“いちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい”と答えます。 その結果、今までわめき散らしていたどんぐり達は、黙り込んでしまします。 この一郎判決へ、宮崎氏は、雑誌トリッパー1996年夏季号で、アニメーション映画監督の宮崎駿氏は、
私は、どんぐり達は、たとえ“いちばんえらい”との肩書きを得る為であれ、“俺は少なくも、一番馬鹿ではない”、“俺は少なくも、めちゃくちゃではない”、“俺は少なくも、まるでなっていない事はない!”という、自分達にもっと身近な、“面子”を捨てる事が出来ず、又、それを大事にしたのでしょう。 その小さな、小さな“面子”を捨てられなかったからこそ、どんぐりは皆、黙ってしまったのだと思います。 更に、宮崎氏の最後の部分ですが、最初の呼び出し状は、山猫の馬車別当の文面で「めんどなさいばんしますから、おいで んなさい。」だったのを山猫は、「用事これありに付き、明日みやうにち出頭すべしと書いてどうでせう。」を提案し、一郎は、“さあ、なんだか変ですね。そいつだけはやめた方がいゝでせう。”と答えた為、山猫自身が“面子”を失う羽目になり、一郎に、山猫から二度と手紙が来なかったのです。 ですから、賢治が、作品の最後に一郎に語らせている通りなのだと思います。 “やっぱり、出頭すべしと書いてもいいと言えばよかったと、一郎はときどき思うのです。” |
こんな程度が理解できない宮崎氏は、なにもベネチア国際映画祭の壇上でスタジオジブリの星野康二社長に、宮崎氏の引退することを発表させることなく、密やかに引退すればよいのです。
ところが、映画を見終わって、エレベータを降りる際、エレベータの「開」ボタンを皆が下りるまで押し続けてくれていた若者に、“映画どうでした?”と問うと、“良かったです”、“では、菜穂子が二郎の帰りも待たず、山の療養所に行ってしまった件は?”、“美しいままの自分を二郎に残して去って行ったので良かったです”と、全く宮崎氏の洗脳を受けていました。
宮澤賢治作品も理解できない宮崎氏には、ご自身で真っ当な「反禁煙理論」等を構築されているとは考えられませんし、このような宮崎氏程度の方々が、若者達(或いは年配の方々)を導いて行くのでは、日本の未来は真っ暗でしょう。
水泳をすれば直ぐ判りますが、
私達素人がいくら頑張って50メートルを泳いでも、選手たちは100メートルを泳いでしまいます。 このように個人差は大ですから、 “ご自身が、タバコを吸っていても元気だから、タバコは無害”の論は通りません。 ご自身が愛煙するのは、私がとやかく言うことは控えますが、 若者への影響力の大きな方々には、若者を喫煙の道へ誘うような行動は謹んで頂きたいものです。 |
宮崎氏の力で、多くの人々を洗脳できるのですから、当然、安倍氏の力でさえ、日本をとんでもない国へと落とし込むことも容易なのでしょう。
何しろ、昨年暮れには、NHKは「ゼロ戦」に関する番組を2晩続けて放送していました。
私は、録画しつつも最初の場面で、かつての「ゼロ戦搭乗員の方々」が「ゼロ戦」を賛美されて居られたので、その後は、ビデオを止めてしまいました。
(補足:1)
先に記述しました『週刊現代(9月21.28号 渡辺淳一:自叙伝「いくつになっても」)に於ける「北海道札幌南高等学校の図書館内」での密会の場面です。
……やがて、二学期が始まって問もなくのことだった。 その夜も、純子がウイスキーのボトルを買ってきてくれて、それを小さなグラスに入れて、少しずつ飲んでいた。 すると突然、純子がわたしにいった。 「接吻して」 一瞬、わたしは冗談かと思って、純子の顔をみると、彼女が軽く口許を突き出しているではないか。 「えっ、今、どうして?」 わたしには、彼女の本心がわからなかった。 これまでも、何度も一緒にウイスキーを飲んでいるのに、そんなことをいわれたのは初めてだった。 もしかして冗談かも、と思って戸惑っていると、純子が再びいった。 「接吻して……」 もはや、冗談ではない。 どうするべきか。わたしがなお戸惑っていると、純子が一歩近づいて、きっぱりといった。 「今日は、わたしの誕生日なの」 そうか、純子は今日、誕生日で、私と接吻することを求めているのだ。 そこまで、はっきりわかったが、わたしはまだできずにいた。 「早くしなくては……」と思いながら、わたしの脳裏に、純子が雪像にもたれて吐いた、真っ赤な血が蘇ってきた。 「接吻したら、純子の結核がうつる」 しかし、純子は今、も間違いなく接吻を求めてる。 「どうする……」 今すぐ接吻をしなければ、と思いながらする決心がつきかねる。 どうしよう、さらに迷っていると、純子がもう一度、言った。 「できないの?」 その声をきいて、わたしは親子の常に一歩踏み出した。 そこでわたしは目を閉じると、思い切り彼女の唇に自分の唇を重ねた。 それに応えるように、純子の舌がわたしの口の中に入り、それとわたしの舌がからみ合って、とけあった。 これで、俺は肺結核になる、あの、一度かかったら容易に治らない。みなが恐れている肺結核になってしまうのだ。 不安と恐怖にとらわれながら、わたしはなぜか、落ち着いていた。 結核になるのなら、なつてもかまわない。 純子の誕生日にうつるのなら、それはそれでいいではないか。 不安と、開き直った気持ちが交錯したまま唇を重ねていると、純子が気がついたように、ゆっくり唇を推し、それと同時に、わたしの唇は純子の口許から離れた。 「……終わったのだ」 そう思った瞬間、純子がかすかに笑ったような気がしたが、そのままわたしから離れ、小きな袋から鏡を取り出した。 それで口許を見て軽くガーゼを当てたが、やがて手元にあったグラスを取ると、そこにウイスキーを注いだ。 わたしが黙って見ていると、純子はもうーつのグラスにもウイスキーを注ぎ、その一つをわたし応手渡してから、「飲もう」というように、わたしにうなずいた。 それに合わせて、わたしもー気に飲み干すと、純子はかすかにうなずき、「ありがとう」 といった。 あとで振り返ると、純子がそんなことをいったのは、初めてのような気がするが、わたしも妙に納得した気持ちでうなずいた。 その夜はそのあと、どちらからともなく、帰り仕度をして別れたが、それが純子と初めてで、最後のキスをした夜となった。 |
(後日、純子は、自身の都合で結核を装っていたことが判明します)
(補足:2)
二郎が設計に携わった零戦が、「世界に冠たる戦闘機」となった根拠を知りたかったのですが、ネジの頭を平にするとか、小さな工夫程度が紹介されるだけでした。
又、鯖の骨がなんだかんだとか言ってましたが、どう反映したのかわかりませんでした。
この映画からは、結局は、「戦闘機としての性能」と「戦闘機の搭乗員の命」を天秤にかけて、後者には目をつぶり、戦闘機の骨格に沢山の穴を開けて、外装板を薄くして軽量化を図ったのに尽きるように見えました。
でも、画面は綺麗でした。
そして、二郎役の方の声は素敵でした。